「データを突き詰めていくことで「感覚」の大切さがわかってきました」(金尚弘インタビュー②)

この世界にあるものをわかりやすく分類し、そのデータを数字に換えてシェアすること。過去数百年にわたり、科学の分野ではそうした方法論を駆使することで、さまざまな成果を挙げてきました。AIの普及はその究極系とも言えますが、データですべてが語れるわけではもちろんありません。ビッグデータの活用が進み、AIによる自動化が進む時流のなか、システム工学の若き研究者である金尚弘さんが着目するのは、人の身体に内在する意識の働き。人と工場、身体と機械、さらには感情とデータ……対極にあるかのように思えるこの二つの世界をつなげることで、いったい何が見えてくるのか? 普段あまり語られることのない、生物(人)と非生物(機械)の見えざる境界……。その壁を注意深く取り払っていくと、無機質な機械の向こうにひょっこり人の姿が浮かんでくるような……。あるいは、それも幻影かのような……。2018年12月、「骨ストレッチ」を実践されている金さんと、久しぶりに京都で再会。前編に引き続き、彼の専門分野に分け入った、ちょっとふしぎな対話をお届けしましょう。

 

 

「拡張する身体」としての工場

 

長沼 生命論、身体論の世界では、「拡張する身体」という考え方があって、それをふまえると機械は自分と別のものじゃなく、自分の機能の拡張したものということになるんです。

 一番わかりやすいのが車ですね。車という乗り物は自分の身体の拡張版で、エンジンやタイヤといったオプションが付くことで機能性が増して、ものすごいスピードで目的地に行ける。自転車や飛行機にも言えますが、そうやって肉体だけでできないことが実現されるわけですよね。

 どこからどこまでが自己なのかという話になるわけですが、そうなると、工場の機械も、工場自体も無機質なものではなく、工場の人にとっては「拡張する身体」になるという……。

 

 なるほど。そういう見方をするんですね。

 

長沼 原理的にはそうなりますよね? 要するに、自己と他者の境界というのは、じつはかなり曖昧なものだと思うんです。

 自己と他者があたかも明確にあるかのように思わされてきたのが近代社会ですから、本来はそれを解除していく必要があるし、そのほうがうまくいく可能性がでてくるわけです。

 

 それはそんな気もしますね。

 

長沼 乗馬するなら「人馬一体」のほうがいいわけですから、馬だけの問題、つまり工場のシステムだけの問題じゃないですよね? 

 あるいは、グローブを物じゃないととらえて大切にするイチロー選手みたいに、もっと身近な道具の話で考えてもいいかもしれません。ここでも人と物がつながっていますよね?

 今日の話を伺いならが、この理屈でいえば、工場みたいな規模の大きな複雑なものも、本当は人と切り離せないと思うんです。

 

 まあ、そういう意味でいうと、工場で機械に接している人たちは、接し方を間違えていると言えるかもしれません。

 たとえば、制御室に座っている人にとっての化学プロセスって、画面に映っているだけだったりするわけです。そこでボタンを押して動かしているだけだし、機械側からの反応もただ画面で見るだけです。人馬一体という言葉で考えるならば、馬と一体感があるのと違って、制御室ではそんな感覚的なものは何もわからないと思います。

 

長沼 それもまたよくわかります。

 

金 実際、かなり便利なのでそれでやれてしまうというのもあるんですが、人馬一体的な形で工場を運営していくインターフェイスには、いまは全然なっていないですよね。

 車の話だと、自分で操作しない自動運転の車は拡張された自分なんでしょうか? 自動運転の車がただの便利な乗り物と考えると、現代の工場はそちらを目指しているのかなと思います。全自動化とか、無人化とか……。

 

長沼 なるほど。ただ、そうやって自分と工場をあまり切り離して考えても、単純な話、楽しくないんじゃないかと思うんです。

 

 それも言われますね。

 

長沼 たとえば、やりがいとか。だって、AIが広がると代わりはいくらでもいるような状況になってくるというし、人間性なんて不要だという話になるでしょう? それは一面でわかるんですが、すべてではないですよね。

 あと、感情的なものは要らないというのは、エゴは要らないにしても、「拡張する身体」はそういうものじゃない気もするんです。

 もうちょっと深いところともつながっているものかなという気がするので。

 

 やりがいということはよく言われますね。実際、機械の状態が悪くなった時、自動で修復できるのは素晴らしいことですが、「俺が修復したんだ!」と言いたい人もいるわけですよ(笑)。ただ、そんな場面でもオートマチックに解決したほうがロスがなくていいのは確かで。

 

長沼 工場で考えた場合、利便性や安全性を求めるのは自然だし、ある程度しょうがないのかな?

 

 「自動化すればいいんだ」だけでも、「俺が楽しくなければ!」だけでもダメなんですよ。どちらかがゼロになることはないんです。

 

長沼 ああそうか、完全にゼロにはならないと。ここに話が返ってくるわけですね。

 

 自動化の割合がどんどん増えてはいるのは確かですが、どちらもあると認識して、難しいですが、そのうえで「自分の目線」を考えておくことが必要かもしれません。

 

 

 

主観のない客観は存在しない?

 

長沼 自動運転の車の話は置くとしても、車が動くと必ず感覚も一緒に動き、意識も変化するでしょう? データを見る時も、プロが見てわかるような微細なレベルであっても、必ず感覚に影響はあるわけで……。

 

 なるほど。自分の感覚が動き出すということですね。確かにそうです。

 

長沼 そこは拡張する身体の話とつながるんですが、昔は関係性が大雑把で、そこまで突き詰めなくてもいくらでも成り立つものがあったと思うんです。AIに象徴されるように、それがいまではかなり極まで来ていると。

 本来、人が人のために作ったのに、どうやって関わっていくか、意味付けができていないままに進んできていますからね。

 

 そうだと思います。とはいえ、工場を自分の能力の拡張したものととらえたことは、さすがになかったですけどね(笑)。

 僕たちにとって、工場ってコンピューターのなかにあるもの、絵に書いて設計するものという感じがあるし、そう教えられてきた面もあるので、「自分の能力を高めて工場と関わり合う」と思っている人はなかなかいないでしょう。

 

長沼 まあ、仕事って繰り返される日常の一部で、退屈なものになりがちじゃないですか? いくら意識を変えても、全部が全部たのしいものということはないと思うんですよ。

「食べる」という工程も、エネルギーをつくるまでにいろいろな工程があって、日々すべてに心地よさを感じているわけじゃないだろうし、そんな単純なものではないからこそ、微細な感覚が成り立ち、磨いていけるものだと思うんです。

 もしかしたら、そういうことをひっそりと感じている工場の人もいるかもしれません。発表したり語り合ったりする場がないだけで(笑)。

 

 企業レベル、現場レベルでは、与えられた条件、規制の範囲で何とかするということをまずは上から、つまり他人という外部から与えられ、そこで決まったことをやるわけです。だから、自分の内側から感覚に基づいて何かするというケースは、現実にはかなり少ないと思います。もちろん、どちらも本当は大切なんですけどね。

 

長沼 西洋哲学には、主観と客観という概念があって、結局、そのふたつの折り合いをどうつけるかということを多くの先人が探求してきているわけですが、そのひとつに「主観のない客観はない」という考え方があります。

 つまり、「自分が見ている世界と見えているもの自体が本当に一致するのか?」という問いに対して、「自分という主観が存在しない客観なんてありえるのか」という話なのですが……。

 

 なるほど。

 

長沼 ただ主観には、偏見や思い込みなどのバグみたいなものが付いているので、純粋な主観というものにたどり着くのは難しいと。

 たとえば、身体の使い方でも本当に感覚だけで動けたらどれだけ素晴らしい動きができるだろうと想像するじゃないですか? でも、実際にさまざまな思いやクセが入ってくるので、なかなか思い通りにはいかない。つい頭で考えてしまうとか、誰もが体験していますよね。

 ただ、そういうものをどんどん削ぎ落としていった先を想定した時、外部の世界に関わるコアな感覚が存在する、それが主観であり、自己であるといった地点に立つのが実存哲学だと言えます。それはいわゆる観念の話なんですが、ただ観念に終わらせず、本当はそのコアな感覚を現実に活かせたほうがいいんだろうなと。

 

 ええ、そうかもしれません。

 

長沼 ただ、近代以降の社会では、主観と客観を分離するのがスタンダードなんですよ。主観を極力切り離していった先に純粋な客観があるという……そのとらえ方が正しいかともかく、みながそう思っているわけです。その象徴が工場的な、オートマチックな社会ですよね。

 だから、こうした話は観念的なようで、原理原則というか、人類が向き合ってきた根本問題みたいなところもあるんです。

 

 いちばん根本の、存在の成り立ちみたいな……。

 

長沼 へんな話、「自分がいない宇宙」が成り立つのか、みたいな問いかけです。ここをしっかり押さえておかないと、本当は議論自体が成り立たないんです、「自分がいない宇宙」をいくら考えても意味がないんですから(笑)。

 つまり、認識というものが最後までつきまとうわけで、どんなことであっても自己は必ず介在しているはずなんですね。

 

 ああ、そこは先ほどの研究や研究テーマ選びと似たような話になりますね。

 

長沼 ええ。研究で言えば、テーマを選べる自由とか、いわゆる「主体性がある状態」というのは単純に楽しいだろうなと思うんです。

 

 

 不確実で曖昧なものの価値

 

 確かに大学の先生にも「研究が楽しい」と言っている方は多いと思います。実際、好きにやれる自由が結構あったりしますから。結局、どんなことでも「主観的に何かをやっている」という点は拭い去れないですよね。

 

長沼 ええ、科学であっても、データ解析などの統計的な領域でも。

 ただ、先ほども言いましたが、科学では「主観は取り除いたほうがいい」という見えない前提、暗黙のルールがあるわけで……。

 

 それがよくないと思いますね。「この研究に主観はないですよ」という言い方で企画書を書いたり、研究予算を取ってきたりする、そうした始まり方がそもそも問題ではないかと。

 それよりも、気の合う人たちと研究するみたいな感じで始めたほうが面白い結果につながることが多いなと感じます。「けしからん奴だ」と言われても(笑)、人類の向き合ってきた課題につながることなのかもしれません。

 

長沼 そういう実例が増えると風通しもよくなるだろうし、活気が出てくるし。

 

 たとえば、「好きで研究したのが良かったんだ」とノーベル賞を受賞した先生が話されますが、国や自治体などの予算を付ける側から、それでは仕事にならないと言われたり、生活のためにそれではやっていけないと思われたり……。

 

長沼 それって、正直、ゆがんだ科学信仰かなと僕は思うんですよね。主観は不確実、直観はあてにならないと言われますが、研究者のほとんどは直観で発明、発見しているでしょう?

 

 そうなんですよ(笑)。

 

長沼 みんながうすうす感じている世界があって、感性がある人は当たり前に知っているわけです。ここでは、そうした当たり前をわざわざ口にして言っているという(笑)。

 

 現状では、それが国の省庁レベルでできないというロックがかかっていて、純粋な直観など大切にする研究者であっても、研究費とか生活していくという現実的な問題にぶつかってしまうところがあります。個人だけでなく、いまは大学も企業もそこでぶつかってしまっていますね。よほどの大企業なら資金もあるでしょうけれど。

 

長沼 個人の問題にとどまらないと。

 

 僕個人の研究とは規模感が違う話かもしれませんが、こういう認識に僕が行き着いたのは、やっぱりデータを無味乾燥に見ていくことを極めようとした結果であって。

 

長沼 とことん突き詰めることで反転した……。

 

 ええ。そうした見方がそれこそ宇宙の仕組みに基づいたものであるならば、すべてに当てはまるわけじゃないですか? まあ、こんな話ができるのは僕が研究を真面目にやっていたからで、ありがたいことだなと思いますが(笑)。

 

長沼 たぶん、金先生はもともと感覚を持っていたんだと思います。だから、データを扱う研究や仕事がやれたのかなと。

 

 感覚を逆に持っていたから?

 

長沼 はい。データって絶対に必要だと思うんです、データは不要、感覚だけでいいというわけではなく。陰陽という太極があるように、何事もバランスが必要なんじゃないかと思いますしね、やっぱり誰かがそれを担わないと。

 で、自分自身でどちらもできるならいいですが、感覚が十分に備わっていければ偏ってしまって当然ですよね。いまの時代、データに偏りすぎているからバランスが悪いというのは多くの人が感じていることだろうし、だから感覚を磨くのは大前提という話になってきます。

 

 ただ、自分で感覚を磨いてきたという自覚は全然ないですね。

 

 

すごいことのすごさを感じるには

 

長沼 子供の頃はどうだったんですか?

 

 たとえば、人間や動物の寿命は鼓動の数で決まっている、だから心拍数が早い動物は早く死ぬっていう話がありますよね? 回数が決まっているので走ったりして心拍数が上がれば寿命が縮むことになるわけですが、10歳くらいの時にこの話を聞いて、「走ったほうが早く着くけれど、鼓動はたくさん打つ、どっちが得なんだろう?」って思ったのを覚えています(笑)。これって、完全にデータの世界じゃないですか?

 

長沼 それはすごい。

 

 子供の頃から、こういう数字が好きだったというエピソードはたくさんありますが、感覚が備わっていたのかはわからないです。

 僕は4人兄弟の末っ子で、わがままだったらしいんですね。それをちゃんと親にも聞き入れてもらっていたので、感情に蓋をせずに成長できたのはよかったのかもしれません。蓋している人ってけっこう多いですよね?

 

長沼 学校の成績とは関係なく、いわゆる聡明な人っているでしょう? その理由を、家庭環境が良かったからだとかいろいろ分析しても、それって後付けで、最初から備わっている人もいると思うんです。で、そういう人って、自分が感覚的だなんてほとんど自覚していない(笑)。

 

 なるほど。

 

長沼 僕は科学系のインタビュー取材もするんですが、じっくり伺っていくと、結局は感覚の話をされているんです。

 で、そういう話をされている時、やっぱりすごく楽しそうなんですね。ああ、本当はそういうことを伝えたかったんだなと。

 

 それはすごくわかりますね。僕は研究テーマとか、何でもいいと思っているんです。

 たとえば、「化学プロセスの研究をしています」という学生がいても、卒業すると普通はもうやらない。全員が研究者になるわけではありませんから、特定の研究テーマがうまくいくかいかないかなんて彼らには関係ないんです。

 僕自身は学術的成果を出す必要もあるのかもしれませんが、学生たちにはもっと一般的な能力や感覚を身につけて卒業してほしいと思うんです。特定の研究や方法が素晴らしいとしても、それにどう向き合うか、研究だけではダメだということが大切だと知ってほしいですね。

 

長沼 たくさんの方にインタビューをして感じるのは、言葉にならない部分の言葉なんですよ。言ってしまうと逆に野暮な感じというか。

 

 わかります、わかります。言ってもわからないし、言うと嘘みたいになるし(笑)。

 

長沼 感覚だから、いくら言葉にしてもそれだけでは嘘になるけれど、実際にやってみましょうとなったら感覚が共有できる。理屈は後でいいじゃないかとなりますよね。

 

 研究でもそれは本当にあると思いますよ。

 

長沼 伝えたかったことは、多分、こっちなんだなと。研究に関するメカニズムとかプロセスも伝える必要があるし、その人にとって、それが社会的なアイデンティティであるわけですが、そこしか書かれないというのでは……。

 

 ええ、両方ありますよね。いや、両方あるものだと思わないと。

 

長沼 正直、賞だけもらっても楽しくないと思うんです。脳は喜ぶかもしれないけれど、大事なのは共有感なんですよ。

 その研究がすごいという、すごいことのすごさがわかってもらえるかどうか? そのすごいことを見つけた人の感覚までわかってもらえる仲間がいて、それも全部含めて「受賞おめでとうございます」という(笑)。

 

 そういう意味でいうと、データの解析にも個性が入りますが、論文ではその個性が消されているじゃないですか。学生たちにも、その人が何を思って数式をつくったのか思いを馳せるようにと言っていますが、大事なのはそこですね。論文を読んで、数式がわかるだけでも便利ですが、便利さだけじゃダメだという。

 

長沼 肝心なことは直接書いてない、だからいいと思うんです。感覚だから書けないし、だからすばらしいし、美しい。

 

 ええ。そんなものまで論文に書いても野暮だし、飲み屋で言うのももっと野暮だし(笑)。

 

(おわり)

 

↓前編はこちらをご覧ください。

 

★「工場のプロセスも、最後は『好き嫌い』が問われてきますね」(金尚弘インタビュー①)

 

取材協力:野口久美子

 

◎金尚弘 Sanghong KIM

1986年、大阪市生まれ。2005年、京都大学工学部入学。2014年、京都大学工学部博士課程修了、同年4月、京都大学工学研究科化学工学専攻プロセスシステム工学研究室助教に就任。化学、製薬、半導体など様々な製造プロセスから得られるデータを解析、製造効率を改善するための方法論を開発し、社会に応用してきた。2016年、人間の運動機能の改善や動作分析の研究を開始。日本の古武術をベースにした身体技法「骨ストレッチ」の創始者である松村卓氏とともに、「WT-LINE®シューズ」の開発に取り組むなど、AI、ビッグデータ、IoT(Internet of Things)に注目が集まる時流にとらわれず、自由な発想に基づいた研究に従事している。計測自動制御学会技術賞など、受賞歴多数。オフィシャルサイト(http://www-pse.cheme.kyoto-u.ac.jp/members/kim/